『Facebookで人気の「有名なバイオリン弾き」は限りなくデマ』の記事について、思ったことなど。オリジナルはコチラで、オリジナルを和訳紹介したのがコチラ。なんと2007年の記事。
概要。
- ワシントンポストが、地下鉄で高名なバイオリニストに演奏してもらい、通行人の反応を調べ、「芸術における場所(=パッケージ、設定、フレーム)の重要性」を調査する実験を行い、2007年に記事にした
- なぜか今更、どこかの誰かが「地下鉄では誰も高名なバイオリニストに気づかなかった。私たちは普段からもっと美しいものに気を向ける必用があるのでは?」というな問題提起的良い話に作り替え、Facebookで拡散
- Facebookでたくさんのシェア、いいね!が付いた
- ハゲックスさんが「そのFacebookの記事はけっこう嘘だぞ!」とツッコミ
幸い僕は、この一連の流れをtumblr.で見ていたため、実際Facebookで見かけた時にスルーすることが出来ました。さすが情強の僕だよね!とはいえニュースフィードで見かけても突っ込む事はしませんでした。知り合いの「いいね!」にわざわざ水を差すのもね。空気読むよねそこは。内容的にも、「良かった、病気の子供はいなかったんだね(ニッコリ」で済む話だし。この姿勢は、ネット好きにとって知っておくべき姿勢の一つかなと思います。ネットには善意の嘘や無害な誤解が溢れかえっているからです。
でも、もうちょっと考えてみて、この件はそういう「善意の嘘」や「無害な誤読」とは違うな、もうちょっと悪質だな、と思ってきました。意図的に記事を矮小化した形跡が見られるからです。これは無害な誤読ではなく、意図をもった編集です。
この嘘記事の悪いところは、オリジナル記事は「通行人のほとんどが気づかなかった」→「アートには設定が必要なのでは?」という、アートというものの性格、システムの性格を取り上げた実験であるのに対し、嘘記事では「一人ひとりの心がけ」みたいな話に矮小化しているという点です。「原発は必要なのか?」というシステムとしての論点を、「一人ひとりの節電が大事」「絆」とかいう、個人や個人間の論点に落としこむのと一緒です。
こういう矮小化がもたらすものは、議論ではなく共感です。いいね!とかシェア!といった共感の気安さは、ネットにあってしかるべきだし、Facebookがそういう場所として機能しているのは素晴らしいことだと思います。が、ちゃんとした論考として成立していたものを、わざわざ小さな共感の物語に差し替えるのは、読者を馬鹿にしているだけでなく、新たに馬鹿を製造することになります。
例えば、黄色い方の24時間テレビ。あのクソ番組では障害者をよく取り上げますが、それは「障害をもつ人は社会でどういう役割を担うべきなのか」「社会に取って障害とは何なのか」というシステムの話としてではなく、単純に感動話としての取り上げ方です。お金が集まるからおk?根本的な対処にはならず、解決を先送りしているだけです。興味を持ってくれる人が一人でも増えれば良い?同時に「共感だけして理解したつもりの無知な人」を増やし、当事者の無力感と両者の溝が深まります。
矮小化された問題提起に、事態を進展させる力はこれっぽっちもないと、僕は思います。議論すべき内容を覆い隠してしまうという点で、より罪深い場合も多いでしょう。
こういう小さな世界観を提示するコンテンツは、僕は催眠術みたいなものだと思っています。世界ってこんなもんだ、この程度のもんだってイメージをうっすらと刷り込む、嫌なやつです。例えば「笑ってはいけない」とか、専門家でもないコメンテーターが知ったふうな事大声でがなりたてる、ああいうテレビ番組。日本が誇る役者、タレント、アーティストたちに馬鹿なことさせて喜ぶ番組は、世界を小さくする催眠術です。てかあれほんと嫌な番組になったよなぁ。最初は面白かったのに。替え歌歌わせられているもんたよしのりとか、マジで見たくない。
あと今回調べてて、ワシントンポストのオリジナル版が今でもリンク生きてたのがびっくりしました。パーマリンクという資産を残すのは当然なんだけどさ。日本の新聞社ってすぐ記事消すじゃん。後から検証されたら困るからなの?知らないけど。ともかく、こういう情報の催眠術にかからないよう、一人ひとりが気をつけていきたいものですよね。いいね!と思ったらシェアお願いします^^b